3.おなかがすくとごはんがおいしい
おなかがすくとごはんがおいしく感じますが、どんどん食べていくとやがておなかがいっぱいになり、おいしくなくなります。ビールは喉が渇いているときの最初の一杯が一番おいしく、あまり飲むとやはり、もう飲めなくなります。吉田秀和が40年前くらいのラジオで、名曲でも飽きることがあると言っていましたが、これはおなかが一杯になった状態なのだと思います。おなかはやがてまたすきますから、またごはんはおいしく食べられるのですが、ごはんは毎日、毎食食べることが出来ても同じ料理は毎日毎食は食べない。好きなものにもよりますが、コロッケやギョーザを毎日は食べないでしょう。ごはんに比べると味が濃いから一日たっておなかがすいても、きのうのことを覚えていて、またかよということで、毎日は食べないのです。でも1週間たつと、先週おいしかったという記憶は頭の中だけで、口や喉はまた食べたいと要求し、毎週でも食べてもいいという料理は誰にでもあるのではないでしょうか? ちなみに主宰は中学の時以来、ギョーザを毎週食べ続けています。さてごはんは毎日毎食食べ続けられますが、パンやみそ汁も同様です。やはり味が薄いからおなかがすきさえすれば飽きないということです。ビールやお酒も同様で、毎食飲むのは多いと思いますが、毎日のお酒は生き甲斐と言っても良いくらいです。音楽で、同じ曲を何回も聴くと飽きますが、音楽の場合はおなかが一杯になるからではなくて、音楽の次がどうなるということがわかってしまっていて、その曲の音楽要素の変化の瞬間が予想出来てしまって、「あ! いい!」と感じることが麻痺してしまう、これが飽きるということです。
以上、ごはんもお酒も音楽も、食べ過ぎ飲み過ぎ聴き過ぎるとおいしくなくなるけれども、それはごはんお酒音楽がつまらないということではない、楽しむには程よい空腹状態が必要なのだということです。
ところで、スポーツを生で、あるいはテレビのライブ中継で見ていた場合、勝敗の行方を固唾を呑んで見守るということがよくあります。どちらかを応援している場合はなおさらです。しかし勝敗が決したあとで録画を見ると、あの時の集中はどこへやら、もうどきどきすることはありません。スポーツというのは一期一会なのだと思います。
野球ファンでひいきの巨人の勝ったニュースを何度も見て勝利の余韻にひたるというのはありますが、これはいわゆるファン心理、何かに帰属している喜びというものであって、勝利の瞬間は一度しかないのです。それから歴史的な名勝負の映像というのは何度見てもそれなりに見がいがありますが、これはその時を追体験しようとして感慨にふけるからで、どうやってもあの時の勝利の瞬間、変化の瞬間が再現するわけではありません。だから新たな勝利の瞬間、変化の瞬間を見届けようとしてまた新しい試合を見るということをくりかえすわけです。
漫才というのは聞いていて、先に何が言われるか予想がつかない状態でおもしろいことを言われるから、その瞬間、わっと笑いが噴出するのですが、2度同じギャグを聞いてもまったくおもしろくありません。漫才というのはスポーツと同じ、瞬間の芸が全てだということです。音楽も、始めて聞いていいと思った瞬間は2度と帰らず、あのときいいと思ったという記憶が残るだけなのですが、しかし録音をくりかえし聞いて再び三たびいいと感じることが恒常的にある。ごはんを一生食べ続けて、何万回となくおいしいと思うことに似ています。ここがスポーツ、漫才と違うところです。
落語も何度も聞いて、毎回おもしろい。落ちがわかっていてもやはりおもしろい。芝居も水戸黄門が印籠を出す所や、赤城の山も今宵限りと名台詞を述べる所など、何度見ても、お〜!と思います。
スポーツ・漫才のその時限りの「どきどき」と、音楽・落語・芝居で 「あ! いい!」 が何度もくりかえすのとで何が違うのかというのはよくわかりませんが、音楽・落語・芝居は食べ物のおいしさと同じで、おなかがすくと何度でもおいしく感じるのと同じ性質なのだということをとりあえず指摘して、音楽について語ることを始めます。