23.おわりに
前のページで、主宰がベートーベンを好きなのは彼がまじめだからだと書きました。ところでオペラの所で、第9はまじめなので教養主義がとりつく島があるが、オペラは底抜けなのでそれがないということを書きました。前のページの冒頭でベートーベンの不屈の精神は迷惑ということを書きました。不屈の精神を言う人たちは、子どもの上に立って不屈の精神を説くのですが、そういう人たちが実は嘘をついているという事例はいくらでもあるのが歴史です。
昨年、劇団四季のミュージカルをテレビと劇場で見る機会がありました。前者は「南十字星」、後者は「人間になった猫」という子ども向けのものでした。前者は太平洋戦争中の東南アジアでの恋愛もの、後者は人間になりたかった猫が人間の世界に来て、人間の世界の醜さにびっくりするという話です。前者は戦争という絶対的な悪がある状況下で恋人達が困難に遭うのですが、戦争という悪があるおかげで、自分達は全面的に無謬であるという確信と楽観に貫かれていて、主題としては「自分達は悪くない」と主張しているだけのものです。後者は権力側(といってもおまわりさんクラス)が民衆にいじわるや邪魔をするお話で、それをもって人間社会の醜さを描いているというもの。子ども向けですから、最後はかわいい女の子に猫が恋をして、おまわりさんとも仲直りし、めでたしめでたしというミュージカルです。(最後に全員が踊って歌う場面はオペラと同じでいいのですが、)相対的に権力の弾圧が強かった時代の、権力は悪であるという主張が背景にあって、楽観は前者と同じです。
そのすぐ後に、一昨年国立劇場で上演された「トゥーランドット」のテレビ放映がありました。このオペラをゆっくり観たのは初めてで、やっと筋がわかりました。「美しいトゥーランドット姫は数多の求婚者に3つの謎を出し、解けない求婚者はことごとく斬首されている。王子カラフが挑戦し謎を解く。追い詰められたトゥーランドット姫にカラフは、自分の名前を当てたら自分が死ぬと逆提案を出す。カラフの名前を知っている女召使いのリュウが捕らえられ、カラフの名前を言えと拷問されるが、カラフに想いを寄せるリュウは白状せずに自刃する。」というものですが、リュウが命とひき替えにカラフを守る心意気に感動します。悪いものが自分達の外にあって、それに対して自分達の都合を描いているだけの劇団四季のミュージカルと大違いです。
教養主義は自分以外の客観的なところに、正しいものやいいものがあって、それを盾に他の人たちを動かしたり、強要したり、説教したりするのですが、第9はいいものとして教養主義に利用されていることがままあります。織田信長のところで書いた文化主義というものも、文化という「いいもの」を祭り上げています。人々の生活ではなく芸術のほうが大事だという芸術至上主義というのもありますが、いずれも寄って立つ根拠を自分の外に求めている。これに対してリュウはカラフへの自分の想いを根拠に身を捧げる。劇団四季のミュージカルは悪いものを作品の中でこらしめれば、それがいいことだということを根拠にしていて、教養主義、文化主義、芸術至上主義と同じであり、その分、芸術として出来が悪い。「・・・が好き」ということが自分の行動の根拠であり、イロハであることが音楽を聴き続けて来て得ている主宰の指針です。冒頭の、ベートーベンの不屈の精神が迷惑ということの意味を説明します。歴史的な事実を言うのですが、1969年、小川ローザの「モーレツガソリン」のコマーシャルが、1970年「モーレツからビューティフルへ」のゼロックスのコマーシャルに変わって以来、既存の権威は地に落ち、1980年代以降、その土壌に生まれて来たサブカルチャーが権威(教養主義、文化主義、芸術至上主義)をこけにし続けています。その状況に意義を認めるのですが(簡単に言うとお笑いが面白いということです)、それでも生き残っている教養主義が「不屈の精神」を言って、ベートーベンが好きだという気持ちを攪乱するからです。 2010.2.20