22.なぜベートーベンが好きか?

ベートーベンの音楽が好きであることはこれまで、いくつか書いて来ました。その音楽を聴いてずっと思っていることは、彼はまじめであったと想像されることです。もともと小学校の音楽室に貼ってあった肖像画や、教育資料として聞かされた偉人伝などで、困難に立ち向かう不屈の精神を教えられたのですが、本当に小学校で教えられた通りの人だったとしたら、今の我々(主宰)には、立派すぎてちょっと迷惑な人物だと思います。不滅の恋人テレーゼ・フォン・ブルンシュヴィックの話は迷惑ではありませんが、恋人の話は他の人にもたくさんあって、ベートーベンならではということではありません。想像するに、彼は自分の音楽の才能を自覚していたでしょうから、彼が音楽を作る態度と同じ視線で、まわりの人たちを見たに違いありません。そうした時、彼はまわりの人たちの作っている音楽が自分の作った曲に及ばないことに気がついたに決まっています。そうした時、人の取る態度は人をバカにする、人に対して傲慢になる、天狗になるのが普通です。多分ベートーベンもこういった大きな態度を取って、まわりの人は迷惑したことと思います。しかし彼は、曲を作るにあたって、もっといい曲を、もっといい曲をと作り続けました。ありふれた才能の持ち主というのは、往々にして人より優れていることがわかると、この辺でいいやと自分の活動をとめてしまいます。ベートーベンは違う。初期こそハイドン、モーツァルトの影響下にありましたが、ピアノソナタ8番悲愴や交響曲3番英雄以降、中期の傑作群を生むに留まらず、晩年まで作風を変えながら作曲し続けました。40年程前の雑誌「音楽芸術」だったと思いますが、安達元彦という作曲家がベートーベンを引いて、「この傲慢と謙虚さが現代の作曲家にあるか?」という文を書いていました。全文の趣旨がどういうものだったか全く覚えていないのですが、安達元彦が自分の、作曲家としての態度をベートーベンに仮託して語ったものと思います。ここで言われている傲慢とは、「俺にしか出来ない」という意識のことであり、謙虚さとは、生涯にわたって「俺にしか出来ない」ことを作り続けることです。主宰はこれを「まじめ」と呼びます。ハイドンの交響曲は「びっくり交響曲」などがいい例ですが、「誰が何と言おうとこれだ」という主張を避けている。世間はこれをハイドンのユーモアという言葉で片付けていますが、主宰はハイドンを好きになれない。ロッシーニは才能という点では大変なものだと思いますが、ロッシーニクレッシェンドに代表される、演奏しながらにこにこ笑っているような音楽が好きになれない。「セビリアの理髪師」はいい曲ですが、全編余裕を感じさせ、大言壮語するのはやぼだという遊び人の音楽です。リヒアルト・シュトラウスも大変な天才でしょうが、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の余裕100%の音楽や、「英雄の生涯」などの、やたら編成の大きな、オーケストラが音の効果だけをひけらかす音楽など、人に真正面から向き合うことをしない人物だったのだと思います(遠山一行が彼を非倫理的と言ったことの意味がこのことなのかどうかわかりません)。

主宰は、ベートーベンのまじめが好きです。まじめであるかどうかが主宰の人を見るに当たっての基準になっています。                            2010.2.14

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