7.オペラ
高校2年の6月に主宰の両親は本郷から練馬区に引っ越しました。主宰もいっしょに引っ越しましたが、多分ステレオを購入したのはこのあとだったと思います。応接間というほどでもない洋間にステレオを設置し、まともに音楽鑑賞をするわけです。それまでは兄のラジオとLPを聴かせてもらっている状態ですから、サンフランシスコ講和条約で独立したようなものです。カートリッジやアンプの様子を今でも思い浮かべることができます。お金はないのですが、何枚かはレコードを買っていったと思います。曲は当然ベートーベンの交響曲、レコード雑誌推薦版の熱情、テンペスト、チェロソナタ等です。
この年の秋、ベルリンドイツオペラが来日しました。この公演はテレビでも放映(TBS?)されましたが、フィガロの結婚で、ソプラノが歌うでもない話すでもないぺちゃくちゃとしゃべり、チェンバロがボン!というのを横目で見ていました。主宰は子どもの頃から歌舞伎の子役のせりふがわざとらしくてきらいで、それと似たものを感じていたのです。一方この年はミュージカルウェストサイド物語の映画がロングラン中で、なんといっても映像に我が高校生たちは夢中になったのですが、ミュージカルはセリフを普通に話し、歌は歌でちゃんと歌うので、この方が自然でいいと思っていました。話しの筋が強烈ですから、歌に移るときの「劇的さ」は充分だったわけです。だからオペラではなくミュージカル好きということで、当時後楽園球場のとなりに後楽園シネマというミニシアターがありましたが、そこで1950年代のパジャマゲームとか南太平洋などを後追いで見たものです。
翌年の春休みにラジオを作りました。ラジオが鳴った瞬間、音楽が聞こえてきて、自分の部屋で音楽が聴けるとあって、ラジオ製作はさよならし、FMチューナーを買い、NHKの実験放送を片っ端から聴き続けました。既にあったテープレコーダーにどんどん録音し、兄が買っていたレコード雑誌をすべてさかのぼって読み尽くし、前年のベルリンドイツオペラの音楽評が目に入ります。「トリスタンとイゾルデはベームで聴きたかった。ベームのトリスタンは出だしの音が違うのです。フィデリオの囚人たちの合唱の場面で足に鎖をつけられているシーンは殺すよりも残酷だ。フィガロの結婚でケルビーノがかわいかった。」などです。さらにさかのぼって1961年NHKイタリアオペラ「アンドレア・シェニエ」第4幕の2重唱で、「歌いながら背景の空がどんどん明るくなっていく。実際にあんなに明るくなるわけはないのだが、あれでいいのだ。」という座談での発言に出会います。ふ〜ん、そんなものかと思いましたが、本当らしいとはどういうことかということを考えていて、例えば我々の生活を16mmフィルムに撮影したとして、それを再生すると多分、会話はとぎれとぎれで、立ち居振る舞いもおもしろくなく、現実が本当で、舞台は嘘だなどということは逆ではないかと思うに至りましたが、それはずいぶんあとのことです。
東京オリンピックのお祭りを経て翌年予定通り浪人、予備校もなんのその、FMとレコード雑誌読みは続きます。さらに一年たってまた浪人、こんどは予備校も行かずに勉強と称して図書館に行き、そこで吉田秀和のレコードの本など読みふけります。遠山一行を知り、この年のザルツブルグ音楽祭でのベームのフィガロの結婚の放送を録音し、再び来日したベルリンドイツオペラのテレビ放映に至ってオペラがわかりました。今思えば、ベルリンドイツオペラ来日の1963年から1966年までかかったわけで、ずいぶん時間がかかったものです。この年、年末のバイロイト音楽祭の神々の黄昏を録音し、翌年やっと大学に入ります。4月に来日したバイロイト音楽祭のワルキューレは、テレビを見ていて、実際に見ていたら絶叫していただろうと思ったことを覚えています。ジークリンデを歌ったヘルガ・デルネシュの豊かで柔らかい声は今でも耳に聴こえます。兄の声を聴いた覚えがあると歌う一幕さながらの記憶です。
秋に来日したNHKイタリアオペラのドンカルロ初日に文化会館4階の窓からしのび込み盗聴しました。その後は好きな曲が少しづつ増えて行き、数えるほどの実演を聴いた経験が加わっているだけですが、第9を理解するのに時間がかかるように、ワーグナーを聴ききれるものでなく、未だにここに留まっていて、現代音楽どころではありませんが、それでいっこうにかまわないと思っています。
事実の記述が長くなりましたが、一つ一つの曲について書くためにはどうしても先に書いておかなくてはならない故です。