9.オペラ2

主宰の一番古いオペラの記憶は1959年のNHKイタリアオペラでのカルメンのテレビ放映です。姉たちが夢中になって見ているのを横目で見ていましたが、ホセが最後にカルメンを殺すのを見ていて、見てはいけないもののように見ていました。筋もともかく、舞台全体が色っぽくて、色っぽいということがわかるわけではないのですが、こどもでもあやしい雰囲気はわかるものです。1961年のNHKイタリアオペラでは、ガラコンサートでデル・モナコがオーソレミオを歌ったのを覚えています。オペラ1で書いたように次は1963年のフィガロの結婚ですが、この間ひげが生えて、少年は急速に大人への階段を登っていたわけです。オペラとは何かという雑誌やラジオからの情報が頭を満たしていき、わざとらしかったり大げさだったりするのは一向に問題がなく、さあここでアリアになるよということがわかっていて、アリアが始まる。その時の役柄への共感はこたえられないものだということがわかります。赤ちゃんがはじめて立ち上がった時、親はもちろん喜びますが、その後何度も、立っち立っちといって、赤ん坊が立っちするたびにわ〜と喜ぶでしょう、それと同じです。先のことがわかっているからつまらないのではないのです。純粋音楽と違って、作曲家が聴衆が喜ぶように作っているのがオペラですが、それが純粋でないからけしからんというのでなく、逆に赤ちゃんが立ったときと同じ喜びがあるのです。歌舞伎で「成り駒屋!」と大向こうから声がかかりますが、これも筋を知っている観客と舞台との交流であって、これがなければ歌舞伎が成り立たないと遠山一行が何度も言っています。落語も同じです。お客さんが笑うから寄席が成り立つのです。水戸黄門が印籠を出すところや、赤城の山も今宵限りの名台詞、気がつくと我々の日常はオペラの題材に満ちている。小田原のうなぎ屋のおかみさんが昔、8月16日の明星が岳大文字焼きの夜、「小田原の夏も終わりだねえ!」と言っていましたが、ここでアリアが欲しい。あるいはくれよんしんちゃんには、たまった感情が堰を切って歌になる場面がいくつもあります。幼稚園の演目で、歌をつないでいくミュージカル風の劇がありますが、音楽のところはいつも感動的です。日常の些細な感情の動きをとらえて、それを(あえて)拡大(Magnify)して歌にした(「音楽の喜び」バーンスタイン)ものがオペラです。聴いていい気持ちになるのですが、それがあっけらかんと底抜けなので、深刻ぶった教養主義という虫が取り付く島がありません。ベートーベンの音楽はまじめですから教養主義者も取り付く余地があるのですが、オペラには不可能です。オペラがわかるようになって、大人になったと思いました。

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