17.カラヤンとグレン・グールド
昨年はカラヤン生誕100年ということで、ユニテルのカラヤンの映像がしばしば放映されました。コンピュータのない時代の、35mmフィルムを継ぎ接ぎして製作されたもので、カラヤンが後世の人に自分の雄姿を見せるための執念の映像です。その映像の効果たるや、40年いちじつ同じアングルで放映しているNHKの放送とは段違いで、画面の切り替わりが早く、民放のコマーシャルのようでしたが、カラヤンは、演奏とはライブが至上であって間違ったって感動があればいいんだという考えはとらなかった指揮者です。
それから8月に教育テレビでグレン・グールドの番組が放送されていました。その中で、ある時期から彼は演奏会で弾くのをやめて、録音にのめり込んでいったという放送がされていました。カラヤンの映像と同じで、テープの継ぎ接ぎを徹底的にやって、いいところだけをつないで、ライブでは絶対に出来ない演奏を音楽として世に出すということをやったということです。
主宰は楽器の演奏が出来ないので、合奏の楽しみというのを体験したことはないのですが、人と息を合わせることの楽しみ、喜びというのはわかります。加藤和彦の「あの素晴らしい愛をもう一度」で、「・・あのとき、同じ花を見て、美しいと言った二人の心が今はもうかよわない・・」という歌詞があります。これは心がもうかよわないというネガティブな歌詞ですが、前半は同じ花を見て二人が美しいと言ったことがあるという意味で、同じものを見て同じ気持ちを抱くと人は仲良くなるのです。外国をひとりぽっちで長いこと旅行して、日本人に出会うとお互いに思わず、面識などなくても話しを始めますが、同じ日本人同士、同じものを見ている共通の体験が信じられるから話すのです。長く外国にいると、そんなことも当たり前になって、エジプト人も外国人に見えなくなりますし、カン太も人間に見えるようになりますが、要するに同じものを見ているかどうかが、仲の良し悪しの分かれ目になるのです。学校時代の友達と何十年ぶりに会うと、生い立ちも、その後の経歴も、今の職業も地位も全く違うにも拘わらずなつかしいのは、やはり共通の体験をしているからです。いわゆる国粋主義とは、お互いが知らないから主義を気取っていられるだけのことなのです。これに関連して、遠山一行の言っていたことを引用します。「音楽で合わせる時の人の合図というのは微妙なもので、人間はその微妙さを感じ取れる能力がある。音楽はライブであるべきで、レコードはこの微妙さを消してしまうので好きでない。レコードの意味は、実際に聴いた演奏の記憶を思い出すことにある。演奏する人がお互いに電波を出し合って合わせるように努め、合わない場合の緊張も含めて、それが『音楽する』ことの意味である。カラヤンはこの、演奏家同士の電波の出し合い自体をさせずに、俺の言うとおりに弾けという芸術家だから、リヒアルト・シュトラウスのような非倫理的な作曲家の音楽の場合はいいが、モーツァルト、ベートーベンはだめである」ということを言っています(注:電波という言葉は使っていませんが、そのような意味のことです。彼についてはすでに断罪済みですが、生き残っているものは多々あり、これはその一部分です。またリヒアルト・シュトラウスが非倫理的ということの意味は今もわからないのですが、別途書くことができると思っています)。
カラヤンの映画を見て、このことは納得出来ます。同様にグレン・グールドについても、録音の世界に逃げ込んだ、人と交わることがきらいな音楽家なのだということが、この間のテレビでわかりました。 (2009.12.3)