11.ボエームとワルキューレ(1)
オペラが好きになって40年余、主宰がいちばん好きな曲はプッチーニのラ・ボエームとワーグナーのワルキューレです。オペラ開眼は1966年で、1967年来日のバイロイト音楽祭でのワルキューレを録音し(1幕と3幕だけですが)、大学時代は延々と聴き続けました。ワーグナーというのは高校の時、古いレコード雑誌にトリスタンとイゾルデの舞台の写真が載っていて、その抹香臭さ、鬱陶しさに一体これは何だと思ったものです。たまにワーグナーの音楽がラジオで流れてもまったくわからない。それが急速に開眼し、「楽劇ニーベルンクの指輪」第1夜ワルキューレに至りました。1幕の後半、冬の嵐が過ぎ去り〜君こそは春のラブソングを経てノートゥングを抜くに至るクライマックスは最もドラマチックな曲だと言えます。ヴォータンという神の親分が人間に子どもを生ませ、その兄妹が離ればなれになって、兄が敵と戦って逃げ込んだ先が敵の家で、そこに妹が略奪結婚のような形で囚われている。話すうちにお互いが兄妹だとわかり、愛の二重唱となるわけですが、そんじょそこらのラブソングなど吹き飛ばしてしまう熱烈な曲です。2幕は2時間もかかる長い曲で、前半はヴォータンがその正妻にやりこめられる退屈な会話、後半は兄と敵とが戦うのですが、正妻にやりこめられたヴォータンが、兄のほうを殺すように、彼の一番可愛がってる娘のブリュンヒルデに命じる。逃げてきた兄妹に向かってブリュンヒルデはあなたは死ななければならないと告げるが兄妹には通じない。二人に同情したブリュンヒルデは二人を逃がすが、現れたヴォータンが兄を負けさせてしまう。ブリュンヒルデよ、けしからんというところで2幕の幕。3幕は今では余りに有名なワルキューレの騎行に続いて、連れてきた妹に向かってブリュンヒルデが、あなたはおなかに赤ちゃんを宿している、だから生きなさいとさとし、妹は神々の黄昏クライマックスで歌われる第9第3楽章の旋律に匹敵する大きな優美な旋律を歌う。怒ったヴォータンがやって来て、「ここにいます。父上。」と姿を現すブリュンヒルデ。怒られたカン太がしょげているようなアニア・シリアのテレビ画面が今でも目に浮かびます。ヴォータンはブリュンヒルデを岩山に眠らせると言う。ブリュンヒルデは、それだけはやめて! せめて岩山を炎で囲って! そうしないと軟派の男のものになってしまうと懇願。感動したヴォータンが最愛の娘よと歌い、火の神に山を炎で囲ませて幕。ここもドラマティックの典型、最良の曲です。第2夜のジークフリートでは妹の生んだ子どものジークフリートがブリュンヒルデを助け出す。
第3夜神々の黄昏ではジークフリートとブリュンヒルデの誤解がもとでジークフリートが敵に殺されてしまい、誤解が解けたブリュンヒルデが愛馬にまたがって火の中に飛び込み殉死、神々は滅び、来るべき人間の世界を暗示して幕。極端に要約してもこれだけの、荒唐無稽と言えばそうですが、ちゃちなリアリズムなど吹き飛ばしてしまう壮大な話しであり曲です。
1966年当時は孫ヴィーラント・ワーグナーの演出が全盛期で、それまでの蛇や蛙が出てくるリアルなワーグナーの舞台を、装飾や演技の少ない象徴的な舞台に作り替えた画期的な演出と評価されていたものですが、それは「ワーグナーの中で残ったのは音楽家だけだ」という誰かの言葉を実践したものであり、舞台はあくまで音楽のしもべで、音楽の理解を助けるものでなければならないというのが、当時の音楽雑誌の識者たちの論調でした。
その後も時々放送されるテレビを見たりしていて、2幕の兄妹の逃避行で、兄が「ああ不憫だ、この兄だけを頼って! 世間はお前に牙をむいているぞ」と歌いますが、世間に背を向けると生きられないこの世の掟を歌っていて、もしかするとワーグナーで残ったのは音楽だけではない、脚本も現代の問題が書かれているかもしれないと思います。この部分の訳はテレビ放送やレコードの対訳によって異なり、本来ドイツ語に当たってみなければいけませんが、これは将来の楽しみです。2幕のヴォータンと正妻のやりとりも、音楽は余りに長く退屈ですが、台詞の内容は体制派の正妻におたおたする旦那という構図でこれもきちんと読み直すべきものです。第2夜のジークフリートも、ジークフリートというのは英雄なのですが、どうもテレビを見ていると、怖いもの知らずだが世間知らずの若者というように書かれているようにも思えます。これも読み直しますが、何せワーグナーは長いので、学生時代を除いて、とことんつき合っている時間がなかったから、いつまでたってもワーグナーを卒業するなどということにはなりません。しかし、このままわからずじまいで一生を終えても後悔はしないだろうと思っています。
次はラ・ボエームについて。