4.劇的ということ
「劇的」という言葉があります。英語でドラマチックですが、英語でも日本語の「劇」でもニュアンスの違いはなく、どちらを使ってもかまわないでしょうから、「劇」で進めます。「劇」とはなにか? 強引に定義すると、「対立する複数の事柄が相互に作用しながら影響し合い、変化し合ってある結末に至る様を描いたもの」で、「観客は結末に至るまでの動きを追体験しながら結末を予想し、最後の結末を同情をもって追体験する」ところの出し物、作品。
定義は先人のものがいろいろあるでしょうが、あえて見ないで書きました。この定義にオリジナリティーがあるとは言いません。音楽について語るとき、その音楽は劇的なところがあり、そこに感動するのですが、それはここの場所で、こういうふうに出来ているから感動するのだということをこれから書いて行きますというときの共通項として、音楽においてはそれを「劇的」(一般的には「変化の瞬間」)ということばで言ってよいだろうということです。
ある結末というのは、いわゆる「クライマックス」ですが、クライマックスを表すとき、我々はよく「ジャーン!」といいます。ベートーベンの音楽が「ジャーン!」を多用したからクライマックスの代名詞になっているわけですが、ジャーンに至るまでが劇で、感動はもちろんクライマックスにあるのですが、そこに至る過程にも感動することは多い。最初から最後まで感動し続けという曲があれば、それはもちろん名曲ということになりますが、同じおかずを食べ続けるとあとのほうは舌が麻痺しておいしくないのでお茶やワインやビールを交互に飲み食べ続けるように、音楽というのは弛緩したところと緊張したところが交互に起こり来るのが普通です。
さてジャーンの典型はベートーベンの交響曲第5番「運命」ですが、世界で一番有名な曲と言ってもいいくらいのこの曲の冒頭の「ジャジャジャジャーン!」ですが、これは劇の作法からするとルール違反だと思います。ビッグバンのようなもので、何もないところにいきなり大きな音でジャジャジャジャーンとくるのは不意打ちで、感動する暇がない。もちろんこの曲はこの動機だけで曲を構成した傑作ですが、劇的という意味では、第3楽章メイン部が終わり、第4楽章への2分弱の導入部がそれにふさわしい。ピアニッシモでフルートがピピピピッピピピピッと運命の動機を奏で、バイオリンのピチカートがポポポポッとこれを受け、ファゴットとのからみが50秒ほど続いて一転転調し、只ならぬ雰囲気の中、ティンパニーがトトトトントトトトンと叩き、バイオリンが暗闇の牢屋から出口を求めるように運命の動機に高さの変化を与えるのですが登り切らずに降りてしまう、もう一度出口を求めるがだめ、これを繰り返すうちに段々高いところが見えてくるがそれでも下降する、さらに繰り返してクレッシェンドが始まり、外に出られそうだという期待がついにフォルティッシモに至って第4楽章に突入する。この後半50秒ほどの導入部が最も劇的な部分です。第4楽章に入ってからはフォルティッシモの連続で、振り上げたこぶしのやりどころがないという感じで最後のじゃじゃじゃ〜に至りますが、迫力はともかく、第4楽章は劇的にすばらしいということはないと思います。もちろんきらいだということはありませんが、一曲の中にも好きなところと、それほどでもないところがあるということです。
この音楽談義は、いわば「この曲のここが好き!」集です。それに加えて、なぜ好きか、どう好きか、音楽の変化の瞬間を言葉で表すことが出来るかを試みるものです。ちゃんと書き表せていようがいまいが、その曲を聴いてもらえば済むことで、談義に同感してもらう必要は全くないのですが、でももしかして、「なるほど!」と思ってもらえたら嬉しいので書くのです。きらいな曲についても書くことはあると思いますが、それは「好きな曲」を際だたせるために書くことになるのだと思います。