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9.指揮者について(2)

小沢征爾の「僕の音楽武者修行」に、 クララ・ハスキルの演奏会を毎日新聞パリ特派員夫妻と聴いた時のこととして次のようなことが書かれています。

「特派員は音楽の専門家ではないが、音楽を聞いて、その美しさにひたれる人は幸福だ。音楽をする苦しみは何も知らず、ただ音楽の恩恵だけを受けているのだから、ぼく(小沢征爾)なんかよりずっと幸福だと思うと言おうと思っていたが言いそびれた。しかし言ったとしても彼(特派員)は『そんなことはないさ。音楽で苦しんだ者ほどそのよさがわかるのさ。ノドがかわかなければ水のありがたみがわからないようにね』と言うだろう。」

全くの素人から見て、指揮者や今回のオーケストラの人たちは雲の上の存在で、彼等の方が音楽をよく知っていることは当然ですが、例えばオケの人たちと指揮者とどちらが音楽をよく知っているかは簡単ではない。双方専門家ですから、オケが指揮者をなめることだってあるでしょう。ウィーンフィルは初対面の指揮者に対して厳しいという話を聞くことがあります。今回のマエストロも学生さんを指導しながら、「指揮者というのは孤独なんだよ」と言っていましたが、さぞかし真剣勝負の連続なんだろうと思います。では指揮者と作曲家の間ではどうか? 指揮者は音楽の専門家ですから、作曲家をバカにすることもあるのではないだろうか? 今回の練習でマエストロは、ある所を指導しながら「ビゼー先生はこういうつもりだったと思います」というような事を言っていました。遠い昔、作曲家が自分の頭に浮かんだ音楽を楽譜に記録する。テンポを決め、音符をひとつひとつ置いて行き、オーケストレーションをし、これだけでは自分のイメージを表しきれないので、各種表情記号を付けますが、これを後世の人が演奏したものが作曲家の意図どおりであるという保証はないと思います。楽譜というのは魚の骨のようなもので、魚の肉に当たる部分までは作曲家は表せていないとすれば、これを表すのは後世の音楽家、指揮者であるということになります。2年前のブログで、大野和士の八面六臂の活躍を描いたビデオテープのことを書きましたが、その中で彼は次のようなことも言っていました。「大野和士が師事した指揮者達は皆、強烈な個性の持ち主だが、ただひとつ共通しているのは、作曲家に対しては皆頭を垂れている」と。

フルトヴェングラーが死んだ時の「レコード芸術」で、「最後まで楽譜を離さなかったが、最後の日はもうだめかもしれないと楽譜を開かなかった」とあり、トリスタンとイゾルデの楽譜を研鑽している写真が載っていました。これは何を意味するかというと、楽譜にはフルトヴェングラーをもってしても尚つかみきれない内容があるから、生涯をかけて勉強するのです。よく大部の小説などをもう一度読むと、こんな事が書いてあったのだと驚くことがあります。何度読んでもその都度発見がある本というものを皆持っていると思いますが、本を読むより本を書く方が労力を要するのは自明です。だから読む方は一度や二度読んだくらいでは内容を知り尽くすことなど出来ないから何度も読むのです。同じことが作曲家と指揮者の関係に言えると思います。だから「ビゼー先生」という言葉が出たり、「作曲家に対して頭を垂れてい」たり、「死ぬ直前まで楽譜を手放さない」のです。才能の大きさとでもいうものが桁違いなのだと理解するしかない。

フルトヴェングラーは彼の著書で「音楽は作曲家と演奏家と聴衆がいっしょに作り出す創造行為」であると述べていますが、才能の大きさがこの順に桁違いであるにもかかわらず、聴衆までを含めている。主宰も聴衆にはなれるので、だから安心するということではなく、謂わば食物連鎖のように、作曲家がライオンであれば、指揮者・演奏家は昆虫のような小動物、聴衆はばい菌かウィルスといったところで、皆役にたっているのだというのがフルトヴェングラーの言わんとするところです。ばい菌である聴衆はがっかりする必要はない。聴衆がいなかったら、音楽家も作曲家も存在できない。もちろん威張るということではなく、音楽の良さはばい菌でもわかるということです、食べ物のおいしさが誰でもわかるように。主宰はばい菌のひとりとして、音楽をたくさんは知りませんが、そしてたくさん知っている人を尊敬はしますが、感動している部分は多分専門家と変わらないだろう。そういう意味では、指揮者とは天の啓示(名曲)を聴衆に伝える役をしているということが出来ます。その意味で、指揮者について語ることは音楽についての全てを語ることになるといっても過言ではない。 

                                                                                        2010.4.27