8.教養主義
戦後の音楽教育は敗戦による文化国家への移行を錦の御旗にして行われましたが、ベースは大正時代の教養主義と呼ばれるものにあったと読み聞いています。明治の文明開化以来、西洋の文物がどっと入って来て、それをお手本にして、、西洋のものがいいのだという考えです。しかし主宰の子ども時代の親の世代は冒頭に書いたように「音楽とは婦女子の技なり」という世代ですから、普通のはな垂れガキどもは学校の音楽の授業などはきらいで、「おいらはドラマー、やくざなドラマー」などと歌っています。女の子のほうが素直ですから歌など上手で、学芸会の合唱などにいっしょに出ようものなら(事実出ましたが)、それだけで女たらしです。しかし音楽すなわち西洋の文物に親しむことが親の間における優越性を示すものだという少数の親がいて、そういう親の子は逆に歌謡曲を遊びの中で歌うことができなくなるのです。主宰の親が全面的にそうだったとは言わないのですが、少しきらいがあったのは確かです。大人を信じて素直に歌を歌ったら、悪ガキどもからばかにされる。主宰は悪ガキどもに対して生意気であったわけではないので、ここに書くほどに深刻だったわけではないのですが、そういうことはありました。中学になっても事情は同じです。授業でチゴイネルワイゼンの演奏を実演で聴いたとき、バイオリンがじゃじゃじゃじゃと弾いてポン!とピチカートを跳ねるところで、我が悪ガキどもは「わっ!」と笑うのです。このことを後で姉に話すと「やーねえ!」と教養主義側の人間です。それでもこれらをかいくぐって時は進み、高校生になるともう自信満々、教養主義者の仲間入りです。音楽がわからないやつは下等民だとばかりです。レコード鑑賞をしていると、窓の外から豆腐屋のラッパの音が「と〜ふ〜!」と聞こえてくる現実は情けないというような文章がレコード雑誌に載っていたと記憶します。このころ音楽を聞き込んでいったことはこれまでに書きましたが、吉田秀和がラジオでだったと思いますが、つぎのようなことを言っていました。「音楽が好きになると、好きな曲がどんどん好きになって、反対に好きでない曲、嫌いな曲が多くなり、しまいにはほんの少しの曲しか好きでなくなる。」あたかも音楽の階級制度を作るがごとき状態です。しかし好きが嵩じると、その曲を裏切ってはいけないという倫理のようなものが生じます。ベートーベンの緩徐楽章のすばらしさを熱情、テンペスト、チェロソナタで知るに至ると、運命の第2楽章を聴いたのはソナタより前なのに、改めてすごいと思います。そもそも最初にすばらしいと思ったのは第9の第3楽章だったというように内省が進行します。反対にチャイコフスキーの1812年序曲は大げさでしつこくて安っぽくてきらいだと好き嫌いがはっきりします。乙女の祈りというピアノ曲は聴き始めこそいい曲だと思いましたが、高校生になったころにはもう甘くてとても食べられません。子どもの頃お酒をなめて、世の中にこんなにまずいものがあるかと思いましたが、時が経つとサンマの肝がおいしくなるように、いずれ酒も飲むようになります。結局、好きでない、あるいは嫌いな曲のことはどうでもいいわけで、「自分はこの曲が好き」ということが大事です。ここに至ると教養主義の提示してくる曲のなかに好き嫌いの区別があることになり、これは教養主義からの離陸です。レコード雑誌の推薦文で買ったレコードにせよ、好きとそうでない曲が分かれるのですから、教養主義者がいたとしてももはや主宰を屈服させることはできない。レコード好きの同級生たちと話していて、お前等はディレッタントだと言い切ったものです。
レコード芸術という雑誌の1966年くらいの新年号の座談会で西洋の影響について話しが進み、最後に吉田秀和と遠山一行がつぎのように発言しています。
吉田:影響というのは与える側の問題であるとともに与えられる側の問題でもあるわけですよ。江戸時代に高度な文化を持ち、爛熟していたところに西洋の文化に出会った。我々自身が西洋を必要としていたのです。
遠山:その通りです。ただ、我々の生活が観念的なものになる。これが我々の現在の問題です。
記憶で書いているので、一字一句は全く一致しませんが、ここで吉田秀和の発言が教養主義を否定しているとはいえませんが、遠山一行は観念的な生活(教養主義)を明確に否定しています。
さらに1967年4月にバイロイト音楽祭が来日し、その直後に「ワーグナー変貌(白水社)」というワーグナーについて書かれたものを集めた本が出ました。その前書きで遠山一行が書いています。「音楽は、この国では、何か、夜の空の月のように観賞され、あるいは天文学の対象として研究され観察されるだけで、人間の精神の問題として、ほんとうに深いところで問われることはなかった。(中略)その(ワーグナーの ー 注)音楽は、月のように遠くからながめるわけにはゆかず、すべての人は、ワーグナーという巨峯の中腹にいたのである。上るか下るかする以外にない。(中略)上っているとおもっている人が、実は、斜面を急激にすべりおちていないとは限らない。(中略)しかし、集まった文章を読んで、私の心の中に残るものは、そのような収集家の満足感とはおよそちがったものである。それは、音楽をきくということが、私どもの精神に課する責任の重さであり、音楽というものが、ヨーロッパ人の心の中で意味することのできるものの大きさ、深さ、はげしさに対する多少の羨望の念である。それは、彼らがおかした多くのあやまちとはかかわりなく、私の心に充実した満足をあたえてくれる。」これは彼の最良の文章です。
しかしその後1969年の安田講堂事件を経て1970年に三島由紀夫が自決したとき、遠山一行は彼が主宰していた「季刊芸術」の後書きで、「私はあのような死を理解しない。ただ失われた才能を惜しむだけである。」と書きました。教養主義をたたきつぶした学生とそれを支持した三島由紀夫を、教養主義を拒否している遠山一行が理解しない。所詮お坊ちゃんなんだと、これ以来遠ざかりました。音楽雑誌も全部売り払いましたが、しかし教養主義というのは日本の特殊性であって、音楽自体は教養主義とはもともと関係がないし、テレビを見れば現在教養のきょの字もNHK以外では見当たらない状況で、好きな音楽をふところで暖めるのは一向に差し支えがないのでこの音楽談義を書くのです。