19.織田信長とワーグナー

NHKの大河ドラマは1964年に始まりましたが、一番多い役は戦国時代の信長、秀吉、家康です。信長以外が主役であっても、先に死んだ先輩として信長が必ず前半に出演します。戦国時代というのは、飢えから解放された現代からは想像もつかない苛烈さであったと想像するのですが、そこで描かれる信長は、墓石を築城に使ってしまったり、延暦寺の坊さんを皆殺しにしてしまったりと、現代の道徳感からするとテレビに映すこと自体がはばかられる所業を行いました。それでもそれがテレビに映るのは「文化主義」というもののなせる技であって、主宰が子どもの頃、裸の絵はいけないが、芸術ならいいと大人は説明していました。信長の所業も、あれは昔のことで、今の我々はあれをけしからんと言う責任はないのだという皆の了解があって、気楽に観ているわけです。同じ理由で、時代劇には昔の殿様たちが善政を施す場面がしばしば現れますが、こんな娯楽物のテレビにさえ修身の教科書のような表現を盛り込むことに腹が立ちます。娯楽物として臭く、いいものを作ろうという芸術家意識にとって出来が悪い。このような状況の下で織田信長の苛烈な所業を描くと、そこには修身の教科書が入り込む余地がない。文化主義というレンズを通して信長を描くと説教臭さが全くない。これは文化主義の怪我の功名です。だから信長が出てくる場面は歴代の大河ドラマ全てがおもしろい。

さてワーグナーですが、革命に参加するは、不倫はし放題だは、天真爛漫というのではなく、やりたい放題に生きた作曲家です。ベートーベンが同時代に生きていたら、「おい、お前、やめとけ!」と言ったに違いありませんが、幸いなことにベートーベンは大先輩だったので、ワーグナーの尊敬を受ける数少ない人物でありえたのです。ワーグナーの音楽は長くて有名ですが、初期の「タンホイザー」「ローエングリン」の通俗的とも言える旋律に耳をゆだねていると、分厚いオーケストラと、分厚い合唱に否応なしに引き込まれ、これでいいんだと抵抗をあきらめます。言葉で言えば、旋律が気持ちいいのですが、椿姫やボエームの気持ちよさとは違います。人間は自分が大事で、通俗的なものには心酔しないぞという自制心が働くのですが、そんなものどうでもいいと思わせる圧倒的な力があります。25年もかけて書いた指輪4部作の荒唐無稽さと壮大さについてはすでに書きました。「トリスタンとイゾルデ」と「パルジファル」は無限旋律の気持ちよさ、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」は円熟した「タンホイザー」「ローエングリン」といったところです。彼は音楽だけではなく、台本と舞台も自分で書き、子どもっぽい歌劇などくだらんという理念を楽劇という言葉で表し、彼の楽劇だけを上演するための劇場をバイロイトに作り、そこにはロビーがないので幕間は外に出てしまい、歩いていると腹が減るのでレストランに入るが、その経営もしていたということが昔の音楽雑誌の座談会に載っていました。彼の楽劇理念は必ずしも彼の意図通りに成功したとはいえないという喧喧諤諤の議論がヨーロッパを席捲したことは遠山一行の所で書きました。高崎保夫という音楽評論家がマリオ・デル・モナコの歌ったワーグナーのレコードを評して、「彼の(注:モナコの)珍妙なワーグナーを聴いていると、ヴェルディのオテロにワーグナーがいかに影響を与えていたかがわかる」とレコード雑誌に書いていたことを覚えていますが、ワーグナーの圧倒的な影響力の前には、「不倫はけしからん!」などという修身主義は吹き飛んでしまうのです。織田信長とよく似ています。                                                                    2009.12.14

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